末社

拝殿
   
 東面する入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い木造建築でいわゆる割拝殿の形式であって正面中央部を拝所とし向拝(ごはい)部分は、唐破風造りで蛇腹天井となっている。
 この建物は、慶長十一年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたものであるが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていた。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられている。
 この拝殿は、天井が張られていないので木組のありさまが観察することができる。
 徳川家によって最後の仕上げがなされたので、三ツ葉葵の定紋が付けられている。
安産社 
   
 古伝縁起によると、後冷泉天皇の永承六年のこと皇后が御懐妊されたとき、或る夜の夢に、南殿へ出られると、木の下に老翁が立っていてその姿はさながら鬼のごとくでした。
 「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げると夢はさめ、そこで皇后はこの旨を天皇にお話になりました。

 天皇の申されるには「木に鬼は即ち槐(エンジュ)の木である。むかし神功皇后が誉田別皇子を御出産になったとき、槐木をもって産殿の柱を造らせた故事がある。

 これはきっと槐木をもって産屋を営むべしとの夢現であろう。はやく槐木の所在を尋ねるようにと勅命を出されると誉田八幡宮に槐木があることが判ったので、勅使を遣わされ境内の槐木の枝を伐りとり、これを産室の上に吊るして安産を祈念され、やがて皇子が御安産誕生された。

 天皇は深く喜ばれ宸筆の額を納進せられた。
また、源頼朝の母公が尾張の熱田明神へ参詣し源家の主将に相応しい子をあたえ給えと祈念すると夢にこれらの神話によって知られるように、古来より当社の槐木は、「安産木」として、出産の際に災難を除き、安産の守護として、広く一般に親しまれてきました
 当宗社
   
 当宗神社の祭神は、現在素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようである。

 当宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。

 その旧地は、方生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に八平方メートルほど残存している。
稲荷社
  
例祭は、4月1日執り行われます。

当日、午後3時より例祭執行、護摩奉納が執り行われます。

午前10時より午後4時甘酒授与いたします。
 
恵比寿社
   
 例祭は、1月9日執り行われます。

当日、福よせ・福笹を授与いたします。


 家内安全、商売繁盛を祈念される多くの皆様がご参拝されます。
9日午後4時より餅撒き神事が執り行われます。
 
神馬 
   
誉田八幡宮には、『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪庁も見つかっています。また、応神天皇陪塚丸山古墳から出土した国宝金銅透彫鞍金具や源頼朝寄進の重文鳶松皮菱螺鈿鞍など多くの宝物が社宝として伝えられています。

 この神馬は篤志家により寄進されたものです
 
南大門
  
 現在、誉田八幡宮の正門は、旧高野街道(京街道ともいう)に面している東門であるが、南の出入口にある切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。

 この門も拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものであるが、大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものである。切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。

 神宮寺であった長野山護国寺の本堂はこの南大門の西方正面に位置していたらしく誉田八幡宮古図(天保九年)から知ることができる。