由緒
                                                      誉田八幡宮 小史・縁起と信仰
 誉田八幡宮と応神天皇陵
 誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。

 応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。
応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。

 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。
応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。
 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
 
 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。
 応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。

 大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。

 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓−応神陵・仁徳陵−をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。
 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。


 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。
中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、
後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。

 さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。
とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。

     
誉田八幡宮の縁起と信仰
 さて、縁起はまず応神天皇御陵の創草の記事からはじまります。
「天皇が崩御されたことを伝え聞いた人々は、鋤鍬を荷って雲霞のように集まって御陵を築いた。これが応神陵である。

 ところが或る日竜馬が現れて、その歩いた蹄の跡をもって境界とした。」
「また勅令によって全国から奉仕者が参集して御陵を警固するようになった。」ことを述べています。次いで誉田八幡宮建立の由来にうつり、「欽明天皇の勅願によって御陵前に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請した。

 そのとき天皇は参籠されたが、夜中に八幡大菩薩が出現し奇瑞のことがあったので、天皇はいよいよ深く信仰になり、この日、二月十五日を吉例とされ、歴代天皇は一代に一度は誉田八幡宮に行幸すべきことを定められるに至った。」

 続いて聖徳太子参籠のこと、弘法大師参籠のこと、行基の参籠、菅原道真の参籠など、創草期における霊現、奇特のことがらが綴られています。
 そして、記録的な記事にうつり、後冷泉院のとき、社殿を南へ一丁ばかり移転し、新たに社殿を造営されたこと、永承六年二月十五日後冷泉院の行幸、治暦二年三月二十八日社殿が鳴動し光を発する異変があり、それ以来朝廷では御占の神事が行われることとなったことや、長承元年十一月の当宮ゆかりの神鳩の故事、社紋の巴紋についての因縁を述べています。

 以上が縁起の詞書のあらましであるが、おそらく八幡宮信仰がさかんになった結果、応神天皇ゆかりの地に社殿が建立されたと考えられます。
     
 やがて、源氏の氏神が八幡であるという信仰がひろまると、誉田八幡宮は将軍家をはじめ源氏を名のる武士たちの信仰を受けるようになりました。

 源頼朝は建久7年社殿、伽藍を修復し、国宝の神輿や、神馬、重要文化財の鳶松皮菱螺鈿鞍・同鉄蛭巻薙刀などを寄進し、室町幕府六代将軍足利義教は、重要文化財「誉田宗廟縁起」、同「神功皇后縁起」を奉納されました。

 南北朝時代から戦国時代にかけては、当宮の別当職、誉田三河入道一族によって守護されていましたが、享徳3年(1454)河内守護の畠山一族の内輪争いに端を発した戦乱により、再三再四その激戦場となり、そのために社殿および伽藍が戦災を受けて荒廃してしまいました。


 その後、戦国の末期、織田信長が全国統一の途中、三好一族を河内に攻め、河内一円を完全に支配したとき当社寺領を没収してしまったと言われます。

  
近世の誉田八幡宮
 中世が終わって天下統一を果たした豊臣秀吉は、誉田八幡宮に社領二百石を寄進しました。天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失したため、文禄3年(1594)社領二百石を志紀郡古室村に転換し、ついで、豊臣秀頼も、社殿再建に力をそえ、普請奉行に片桐且元を任命しました。

 当宮に伝わる秀吉の朱印状、片桐且元の文書などで知ることができます。さらに17世紀なかば、書家・茶人として有名な大橋竜慶は重要文化財の太刀をはじめ、30数件におよぶ宝物を奉納して当宮の権威を高めています。

 竜慶は豊臣・徳川の両氏に仕え、ことに徳川家光の愛をうけたと云われています。
竜慶の祖父重信が河内国志紀郡に領地があったため、誉田宮との縁つながったものと推定されます。

 今の社殿は江戸時代のはじめに建てられたもので、片桐且元が奉行として尽力したことが棟札などで分る。しかし拝殿の建造がちょうど大阪夏の陣の時に当たったために、建物の内部は未完成に終わっています。大阪落城の影響が、当宮でもかなり大きなものであったことが偲ばれます。


 徳川幕府は、誉田八幡宮に引き続き社領二百石を扶持し、また数次にわたって社殿の造営、修復を行っています。このような幕府のあつい庇護のもとに、神宮寺として長野山護国寺を併存し、その搭頭、十五坊、伽藍がそびえ、社人十三家を擁して、その規模の壮大であったことは「誉田八幡宮古図」にもうかがわれます。

 しかしながら、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈により、長野山護国寺の大半は取りこわされ、当時の遺構として今は南大門を残すのみとなっています。